干支にちなむ馬のよもやま話

天王寺動物園長 中川 哲男



フランス・ラスコー洞窟に見られた馬


BC.425年頃の古代ギリシャの
石棺に彫り込まれた戦車

 


日本の在来馬で、最も小さい愛媛の野間馬

 


江戸時代の四条河原遊楽図に
見られる見せ物のポニー

 の家畜化は今から5000年前のBC3000年の新石器時代、東南ヨーロッパが起源といわれ(ラスコー、アルタミラの洞窟壁画は後期旧石器時代)、当初は食肉用として畜養したのが始まりで、BC2000年頃の青銅器時代に兵器として1〜2頭立ての馬が曳く二輪戦車に使われだします。これらはエジプトの墳墓の壁画や古代ギリシャの石棺、壺のレリーフにも見られます。その後、戦車より機動性のある騎馬兵法が中近東、内陸アジアで起こり、これがメソポタミア、エジプト、中国、果てはバビロニア、アッシリアに伝えられ、ますます馬の騎乗が進歩し、品種改良が重ねられます。

■日本のウマのルーツ
ところで日本のウマのルーツについて話してみたいと思います。

 世のウマについては縄文時代や弥生時代の遺跡で牛馬の骨が発掘されることから、この頃すでに獲物として狩られていたか、家畜として飼われていたかが想定されます。
 日本の在来馬ルーツを探ると、縄文後期に中国華南地方から台湾、琉球諸島、薩南諸島を通じ、広西矮馬や中国西南山地馬(四川馬、雲南馬のルーツと言われる)を母体とする小型馬が導入され、与那国馬、宮古馬、トカラ馬、野間馬が作られました。また、弥生時代には内蒙古、河北、遼寧、吉林から朝鮮半島を通じて蒙古馬(中央アジアのタルパン系高原馬とも言われる)を母体とする中型馬が導入され、御崎馬、木曽馬、土産馬が作られました。ちなみに対馬の対州馬は朝鮮半島ルートと南西諸島ルートの交雑があるのか、両方の中間型を示しております。
 ところで、広西矮馬は俗称で「果下馬」と言われているものもありますが、この名の由来は体高が1mで、馬に乗ったまま低い果樹の下をくぐり抜けることができ、小回りが効くという意味で名付けられました。現在、王子動物園、神戸市馬事公苑等に5〜6頭飼われています。日本の在来馬で最も小さいのが「野間馬」ですが、体高は1m10cm位で昔はみかん農家の栽培運搬用に重宝されましたが、機械化により飼育頭数が激減して、一時は7頭までになりましたが、とべ動物園と今治市の野間馬ハイランドで増殖が図られ、オス31頭、メス47頭まで回復しました。
 野間馬のような小型の動物は、同じ種であっても小さな島や僻地の高所などで隔離され、何百代と継代すると体格が矮小化する現象があります。例を挙げるとヤクシカ、ヤクシマザル、リュウキュウイノシシ、トカラヤギなどがそうですが、それらと同じように体格が小さくなったものと思われます。
 ここでエピソードを1つ2つ。平家物語に宇治川の合戦で木曽義仲が源頼朝を退けた時、源義経の家来の佐々木高綱と梶原景季が頼朝からそれぞれ授けられた名馬に乗っての先陣争いや、源平盛衰記に屋島の合戦で那須與一が、船上の扇を射止めるなどのシーンで各武将が馬上豊かに大見得を切ってやり合うのですが、とにかく、言ってもたかだか1m30cm位の高さの馬に平均身長1m55cm位の武将が甲冑を付けて騎乗するのですから、何ともバランスの悪い格好であったのではないでしょうか。
 このような状況で、日本の在来馬は余り進歩もなく明治維新を迎えます。この間の安土桃山時代や江戸時代に、明や南蛮貿易で「はるしゃ産」と称する洋種を盛んに輸入します。しかし、各大名、将軍がいくらかの馬疋改良をしたようですが、あまり続かず大きな改良とはならなかったようで、コレクションとして姿形のきれいな洋種を愛でていたのでしょう。

 治に入って日本は列強と肩を並べるため西欧諸国からいろいろな知識、情報、技術を貪欲に吸収しますが、日清戦争、日露戦争時に同盟国が戦場視察で日本の軍馬を見て驚いたのは、牡馬のほとんどが去勢されていなかったことです。騎馬民族を祖先に持つ欧州列強は軍馬は必ず去勢し、牝馬に出会っても馴致調教どおり制御が出来ることを当たり前としており、これが軍馬の使命としておりました。従って、日本の軍馬が牝馬の前て統率がとれず、制御がしにくくなる状況に唖然としたと記しています。また、馬格が外国のものと比べて貧弱で、速度、輓曳力、耐久力が劣っていたことを同盟国の軍事顧問が指摘をしています。
 このようなこともあって、明治時代の軍馬では日本在来種の割合が高く中型和種が87.8%となっていたものが、その後の馬疋改良で洋種を盛んに輸入し、昭和初期には洋種との雑種が92.3%にもなりました。その後、軍馬はすたれますが、競馬用の軽種、乗馬と輓曳用の中間種、輓曳用の重種と用途に合わせて馬疋改良を重ね優秀な馬を生産しますが、馬の保有数、乗馬人口ともはるかに欧米に差をつけられているのは元来、日本が農耕民族であるということを物語っているのではないでしょうか。

(なかがわ・てつお)