飼育の思い出


 

 小学生のころより動物を飼うのが好きで新聞配達のアルバイトで稼いだお金でジュウシマツ(十姉妹)を一つがい買ったのを覚えています。そのジュウシマツの飼育が小鳥を好きになるきっかけでした。粟(あわ)に卵黄をまぶし、陰干しして稗(ひえ)とともに与えますと雌が発情し、産卵して、気がつけばジュウシマツは30羽近くになっていました。その当時は高級フィンチのコキンチョウ(胡錦鳥)、キンセイチョウ(錦静鳥)、コモンチョウ(小紋鳥)などを飼うのが流行で、私もコキンチョウの頬の赤、胸の鮮やかな紫の色彩に魅せられて、あるブリーダーから一つがいのコキンチョウを安く分けてもらいました。

 コキンチョウという鳥は、抱卵、育(いく)雛(すう)が下手な鳥で卵を産んでもほとんど抱卵しません。ジュウシマツを仮母とし、20つがいほどのジュウシマツを用意して、繁殖シーズンである秋にコキンチョウの餌(えさ)にカナリシードを少しずつ増量し与えます。すると、雌の発情が促され卵を産み始めます。その際、産み落としても卵が割れないように床一面にもみ殻を敷き詰め、産み落とされた卵を集めます。4個ぐらい卵が集まるとジュウシマツが抱卵している卵と取り替えます。コキンチョウは卵を抱卵しない限り初冬まで卵を産み続けるのです。このようにして一シーズンに20羽あまりのコキンチョウの雛(ひな)を巣立ちさせました。驚くことにコキンチョウの雛は、その容姿にも似て口の中も大変美しい色をしています。口を開けるとダイヤ状に光る粒が5個ほど見えます。これは野生での繁殖時、暗い木の洞(うろ)などで親に餌をもらうときに分かりやすく見せるためといわれています。このように小学生のころ我が家では100羽あまりの小鳥やイヌを飼っており、とにもかくにも動物に夢中の少年時代を過ごしました。

 動物好きが高じて高校も畜産科のある学校に入学しました。高校を卒業して、就職はある製薬会社の営業マンになりましたが、うまくいかず一年で退職し、約2年間『ペットショップ』を経営していました。ところがある日のこと、高校時代の先生が店に来られて天王寺動物園の飼育係の採用の話があるよ、試験を受けてみたらという話を頂きました。よく考えた末、採用試験を受けた結果、当園に就職が決まりました。昭和45(1970)年5月のことでした。

昭和45年撮影

 最初に配属されたのは「類人猿舎」で、ゴリラ、オランウータン、チンパンジーの飼育班でした。そのころはまだ野外ステージで、チンパンジーなどのショーが毎日曜日に行われており(現在では動物愛護や福祉の観点から廃止されています)私も担当していたチンパンジー(夏子サクラ)を調教し、竹馬乗りや三輪車乗り、テーブルマナーなどの芸を教え野外ステージで披露していました。担当している間にはチンパンジーが脱出するなどの大きなミスを起こしたこともありました。また、アフリカからやって来たチンパンジーのサクラが、夕方の勤務後私が帰宅してしまうのを不安がり、仕方なく一緒に寝たこともありました。類人猿舎を9年間担当した後、は虫類生態館、カモシカ園、ライオン舎、ヒョウ舎、トラ舎、鳥の楽園(ガンカモ類、サギ、シュバシコウなど)、コアラ館を担当しました。そして55歳になった折、予想外の『企画調整班』に配属されましたが、よく考えた末、退職までの5年間を精一杯頑張ってみようという気になりました。この仕事は動物園の目的の一つでもある教育普及という大きな役割があります。そこで休日にはできるだけ図書館に通い動物関係の本を読み、何を聞かれても答えられるように努力しました。この間、私を周囲から支えていただいた教育普及関係の獣医師、行事などを一緒に担っていただいた企画調整担当の皆様、また、これらに関係してご協力いただきました管理課並びに飼育課の皆様に厚くお礼申しあげます。

平成16年撮影
平成16年撮影