私は昭和54(1989)年4月1日、年齢29歳の年を取った新人として天王寺動物園に就職しました。当時、天王寺動物園の飼育係員は北園担当と南園担当とに分かれていて、私は南園の担当者として配属されました。南園と北園とは地下道でつながっていましたが、南園は何か孤立しているような感じのする所でした。どのような動物がいたかと申しますと、アジアゾウ、キリン、サル類、ホッキョクグマ、その他のクマ類、シカ、クジャク、また、当時は今は鳥の楽園となっている日本庭園があり、水禽(すいきん)など数多くの動物を飼育しており、これを7人の飼育係で担当していました。私は新人のため、クマ舎(マレーグマ、ニホンツキノワグマ、エゾヒグマ)、シカ舎(ニホンジカ、ダマジカ)を担当するとともに、ゾウ舎でアジアゾウの飼育の手伝いもしていました。この間、生まれて初めてダマジカの人工哺育(ほいく)に挑み、成功して感動したり、また、マレーグマの雌が死んで悲しい思いをしたりといろいろ経験しました。
次はサル舎の担当になりました。当時のサル舎は20室以上もある大きな建物で、「サルアパート」と呼ばれ、2階建でした。本番の人が休暇などの時に対応するための交代の担当はキリン舎で、どんどん飼育に対する楽しみが増えていきました。しかし私の最も深い思いでは、オランウータンを担当していたときのことです。当時オランウータンの雄、サブを担当していたころは、円形のオランウータン舎のステージの横にガラス張りの展示室があったのですが、その部屋で幼いサブが私と対面した状態で朝食を取ること、夕方には私といっしょに園内を散歩し、最後に自販機でフルーツ牛乳を買ってもらって飲むことが、サブにとってはとても楽しかったようです。当時、関西テレビの「アキちゃんの動物園」というドキュメンタリー番組の取材を受け、サブと私の映像が放映されました。サブは平成20(2008)年8月に亡くなりましたが、放映された映像のビデオが残っていないことが今となってはとても残念です。
平成3(1991)年10月には繁殖を目的に宮崎のフェニックス動物園で芸達者で人気のあったモモコが天王寺動物園にやってきました。このときは、新しい類人猿舎ができたばかりでサブとモモコはこの新居に引っ越すことになりました。モモコは以前に一度宮崎で会っただけなのに天王寺に着いて間なしに私に抱きつき、すぐに慣れてくれました。そんな二人の引越しは簡単でした。私はモモコを背負い、サブの手を引いて新しい類人猿舎まで15分かけてゆっくりと引っ越しました。そして類人猿舎に移った後のサブとは直接触れ合うことはなくなり、モモコだけが直接飼育となりました。またさらには職場内の配置転換でサブやモモコと別れなければならない時期が近づいてくると、直接触れ合うことを避け、次の担当者に彼らのことを託しました。サブは亡くなってしまいましたが、モモコは今も元気で過ごしています。サブとモモコとの間に子どもはできなかったのですが、新しい雄のオランウータンとの間に子どもができることを祈っています。
52歳になった夏、忘れることのできない経験をしました。クモ膜下出血で倒れ、開頭手術を受けたのです。発病して2週間は集中治療室に入っていましたが、その後、一般病室に移り45日で退院し、幸いにもすぐに職場復帰することができましたが入院から退院、また、その後もいろいろな人々にお世話になりました。大変ありがたいと感謝しています。このあと定年までの8年間、めまぐるしいぐらいに担当が変わりました。まずは夜行性動物舎から、調理場、さらに予想すらしなかったコアラ館へと変わり、ここでは大変苦労しました。まず餌であるユーカリの種類を覚えなければならず、またコアラによってはユーカリの種類に対する好き嫌いがあり、餌(ユーカリ)の献立を上手く作らなければなりません。そして、最後にはレッサーパンダや猛禽(もうきん)舎(ワシやタカ類)を受け持つことになりました。それもいよいよ終わりに近づき、寂しさが募っていますが、現在までさまざまな動物を担当させていただき、さらにはたくさんの思い出を作らせていただき、お世話になった皆様に感謝しております。誠にありがとうございました。
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